きょう8月3日は玉野市が始まって80年の記念の日です。
ここで玉野市の成り立ちについて少し振り返ってみましょう。
玉野市は以前から栄えていた玉地区のある日比町と宇高連絡船の宇野港がある宇野町が1940年に合併して生まれました。
玉地区の「玉」と宇野町の「野」を取って「玉野」という名前になったのですね。
その後1953年に山田村、1954年に荘内村、1955年に八浜町と合併。
そして、児島湾七区干拓事業の完成によって1965年に現在の東七区、南七区が玉野市の区域になりました。
さらに1974年に東児町と合併して現在の玉野市ができました。
今の玉野市の形になるまでは長い道のりがあったのですね。
玉野市の成り立ちが分かったところで次は写真を見ていきたいと思います。
これは、大正2年ごろの日比港です。
3本マストの帆船ですか、船がいっぱい並んでいますね
日比港は、児島の下津井と同じく北前船の寄港地で、米やみそなどを売る商店が建ち並んでいました。
にぎわっていた様子が伺えますね
次はこちらの写真なのですがなんだと思いますか?
あの時代ですから、ソーラーパネルということはないと思いますが・・・
実はこれは塩の生産風景なんです。
塩田ということですか?
はい。昭和35年に埋め立てられる前までは宇野周辺でも塩田が経営されていたそうです。
いまは市役所があるあたりで昔は塩の生産をしていたというのは想像が出来ませんね。
最後にこちらの写真です。
船の上にたくさんの人が乗っているんでしょうか?
これは向日比で昭和6、7年ごろまで行われていた「おしこみ」という行事だそうです。
何をしているんでしょうか?
向日比では、漁を控えた若者の志気を高めるために紅白に分かれた漁船で競走するという行事を行っていたそうです。
港とともに歩んできた玉野市を写真で振り返りました。
最後に、黒田晋市長に80周年を迎えての今後の抱負について伺っています。
【インタビュー】玉野市黒田晋市長
今年は市政80周年を記念して記念式典や花火大会などが行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で来年に延期になっています。




